石心会グループのご案内

理事長 石井暎禧の論文集

無理大きい在宅介護制度全体を見直せ
- 見えてきた様々の欠点 -

社会保障制度全般が改革されようとしている中で、介護保険はどう手直しすればいいのか。

介護保険は在宅介護の推進が大きな眼目であった。しかし、現場の担当者たちの声を聞けば、推進どころかむしろ後退させた面もあることが、はっきりと分かる。

  介護保険の導入で、介護サ-ビスの供給総額は確かに増えた。しかし、介護保険の制度設計者たちは、在宅介護とは何かを十分に理解しておらず、それゆえに在宅介護を推進させる仕組みを作り上げられなかったのである。

  コムスンやニチイ学館など在宅介護事業に進出した企業が、在宅介護の需要が予想よりも少なくて赤字に苦しんでいるのは、日本の老人が控えめだからでも、家の中に他人を入れることを嫌っているからでもない。そうではなくて、在宅介護の需要は、介護保険が実施されて一年でほぼ出尽くしたと考えたほうがよい。

  もっと正確に言えば、在宅介護の需要は潜在的にはいくらでもあるのだが、現状の介護保険はそれにきちんと対応できる仕組みになっていないのである。
そのため、施設介護への需要は、相変わらず高い水準にある。どの地域でも介護老人福祉施設(特別養護老人ホーム)は足りないのが現状である。

  現在の制度では、老人を在宅で介護をしようとすれば、介護にあたる家族が一人以上存在しなければ無理である。逆に言えば、介護保険における在宅介護は、介護にあたる家族がいることを前提としたサービス給付となっている。
そもそも、要介護度が3以上で手厚い介護を必要とする老人を、在宅で介護すること自体にかなりの無理がある。
よほど特殊に家族内介護力を強化しているのでなければ、おのずと施設介護に移行していくことになるだろう。
施設に入所したり、病院に「社会的入院」をせずにすみ、自宅にいられる老人は、要介護度が1か2、あるいは要支援が主である。
そしてその層こそが、在宅介護サービスを最も必要としている。

  ところが、その程度の要介護度では、サービスの支給限度額は要介護度2でも月に194,800円であり、なかなか満足できるサービスは受けられない。
よく指摘されているように、より介護が困難な痴呆性老人でも、要介護度が1か2にしかならないケースが多い。
これが一人暮らしならば、なお困難は増大する。

独居老人と「見守り」ニーズ

具体的なケースを挙げてみよう。
私たちの法人に所属するケアマネジヤーが対応している74歳の独居老人。
糖尿病が原疾患で、多発性脳梗塞と精神分裂症があり、対人関係障害がある。
ややぼけも出てきたが、介護保険では要介護度2である。

  私たちは、介護保険の以前からこの老人にいろいろなサービスを提供し、コーデイネートしてきた。
訪問看護、訪問介護、デイサービス、用具貸し出しなどである。
ところが、要介護度2の支給限度額は簡単に超えてしまう。彼の在宅生活を支えるためには、仕方なく私たちが直接提供できる訪問看護と訪問介護の無料サービスをするしかない。
供給量を増やしても報酬は増えていないのだから、実質的な値引きである。
ボランティアを導入しようにも、本人に対人関係障害があるため、やたらと入れるわけにもいかない。
結局、私たちが支えられなくなれば、施設入所か社会的入院しかない。

  対人関係障害のある独居老人など、全国的にみたらきわめて数多くいるはずである。

  介護保険になる以前の措置制度のほうが、痴呆や精神に障害がある老人が在宅で暮らすための様々なサービスを自由に提供できた。
ところが、なまじ要介護度認定が導入されたためにサービスの量が制限され、介護の水準が下がる。制度設計者が施設介護しか研究しておらず、在宅介護の実態を知らなかったからであろう。

  要介護度の認定が、施設介護を前提にした調査を基礎にしていたことについては、介護保険が実施される以前から私は批判してきた。
痴呆性老人や独居老人の介護で一番重要なのは「見守り」である。
先ほどのケースでは、頻繁に自宅を訪れて、糖尿病の薬をちゃんと飲んでいるか、暴飲暴食をしていないかどうか、見守る必要がある。
だが、こういう行為は介護保険の在宅介護のメニューに入っていない。
介護の実時間で計算できないような支援は、カウントされていないのである。

  実は、見守りというニーズは、施設に入ればほぼ自動的に解決してしまう。
頭が「まだらぼけ」であっても、施設にいれば朝昼晩と一定の時間でカロリー計算された食事が取れ、着替えができ、トイレに行けてしまう。
逆に言えば、施設介護を見ているだけでは、見守りのニーズは隠されていて分からない。
介護の核心は、老人の生活リズムを把握した上での生活支援である。衣服の着脱やトイレなどの身体的サービスは、介護のほんの一部にすぎない。
それゆえに、身体サービスあるいは家事援助サービスだけを、在宅介護に導入してもうまくいくものではないのである。

  痴呆性老人の要介護度認定に問題があることはしばしば指摘されてきたが、制度設計者は、独居老人についても想定していなかったと言わざるをえない。
おそらく、脳梗塞の後遺症による片まひなど、頭がしっかりしていて身体に不自由がある人を典型例としていたのであろう。
介護保険法第一条は「(要介護者が)能力に応じ自立した日常生活を営むことができるよう、必要な保健医療サービス及び福祉サービスに係る給付を行う」と掲げたが、「自立支援」というコンセプトは、よく言えばお題目、悪く解釈すると自立できる人だけを支援するということである。

不遇なるケアマネジヤー

旧制度の下で長く在宅介護を続けてきたケースにおいては、ボランティアや障害者福祉制度まで含めたありとあらゆる社会的資源が利用されるのが通例であった。
そのために在宅介護支援センターという仕組みもあった。だが、介護保険施行後は報酬が半減され、スタッフはケアマネジヤーとして食べていかざるをえないことになった。

  ケアマネジャーの報酬は、介護保険の給付内容に対するケアマネジメントとして支払われる。ところが、老人によっては介護保険以外の相談をしてくる場合もあるが、当然のことながらこれには報酬は支払われない。
私たちの法人の在宅介護支援センターはこの4月に124件の相談を受けたが、そのうち介護保険のサービスを受けたのは107人。
ほかの17人は介護保険は受けていない。

  介護保険の制度設計者が在宅介護について甘く考えていたことは、ケアマネジャーの待遇問題を取り上げてもよく分かる。
現在、一人のケアマネジャーの担当は50人までということになつているが、とてもそれほどは手がけられない。
せいぜい30人が限度だろうと言われている。
しかも、実際の仕事はケアのマネージ(立案・管理)より、給付管理が主になつている。
給付管理の仕事が煩雑すぎるのである。

  ケアマネジャーの報酬は、大きく言って要介護者への給付額に比例する。
ところが報酬の高い要介護度3以上のケースは1、2割にすぎない。
つまり、8・9割は2以下である。それでは、ケアマネジャー一人当たりの報酬額は、月に30万円程度にしかならない。
ここから経費を引けば、給与はその半額程度となってしまう。
とてもではないが人を雇える給与額にはならない。
実際にはケアマネジヤーが所属する組織が赤字を補てんしているわけだが、担当人数を増やして目いっぱいの50人までやれば、ケアマネジヤーの仕事は形骸化してしまう。

  後で再び触れるが、日本の福祉制度は建て増しを繰り返した温泉旅館のようなもので、仲居さんが優秀でなかったら複雑怪奇な館内で迷ってしまう。
この場合、仲居さんとはケアマネジャーのことである。
しかも、ケアマネジヤーは介護保険だけ理解していてもだめで、医療保険も障害者福祉も全部分かっていないといいマネージはできない。
旅館の中で迷わないためには優秀な仲居さんに心付けをはずまなければならないのは自明の理なのであるが、現在のシステムはそうなってはいない。

中間施設の減少と社会的入院

何らかの疾病で病院に入院していた患者が、もはや入院でやることはなくなったが家ではすぐには引き取れないという場合に入る施設を中間施設という。
旧制度では、医療保険適用の老人保健施設(現在は介護老人保健施設)と療養型病床群が中
間施設の役割を担っていた。
ところが、介護保険実施で介護老人保健施設が介護保険適用となり、療養型病床群も医療保険から介護保険に移ることが認められた。
医療保険では入院期間が長くなると報酬を減らし、病院に退院を促す仕組み(逓減制)が採られている。
だが、介護保険には逓滅制がない。
報酬が減らなければ入所者を適所させる必要はなく、介護保険適用施設は中間施設としての性格を担い難くなった。
一方で、介護老人保健施設と介護保険適用の療養型病床群は、施設間のたらい回しがなくなつた半面、永住施設化した。

  一般病院の逓減制は以前よりも厳しくなり、2週間程度で赤字になるので、ますます早期に退院させるようになっている。
入院期間が短くなれば、中間施設はより必要になる。
ところが、介護老人保健施設が中間施設でなくなり、旧制度では中間施設として使えたショートステイも、自由に使うことは難しくなった。
まず要介護認定が必要だからである。
要介護認定を受けてケアプランを立て、サービスの供給が始まるまでには3ヵ月かかる。
2週間と3ヵ月の間はどうしたらいいのか。
制度上は前倒しでサービス供給を受けてから要介護認定を受けてもいいことになっているが、現実にはこれは難しい。
施設介護が過剰供給されているような状況ならば、サービス提供者たちはそういう人たちに無理してでも便宜を図ろうとするだろうが、介護老人福祉施設に入所待機者がいるような状況では、無理をする動機がない。

  結局、中間施設の減少は、病院における社会的入院の需要を増やしている。
介護保険の目標の一つは社会的入院の解消だったが、よく考えられていない制度設計が、目標を裏切る結果を生んでいる。

医療と介護の区分けが不明瞭

日本では医療と福祉の関係が以前から不明瞭だったが、介護保険が導入されてもなお分かりづらい。
入院医療はいわば一種の緊急避難であり、どうしても患者を管理する側面をもたざるをえない。
それゆえ、福祉(生活支援)施設を医療施設という位置づけにすべきでない。
植物状態のような特珠な例はともかく、少なくとも意識のある人間に対しては、生活のアメニティーから考えなければならない。
だからこそ社会的入院は解消すべきなのである。
福祉施設の肩代わりを病院がしている先進国は、日本のほかには存在しない。

  介護保険の導入は、医療と福祉の区分けをはっきりさせ、社会的入院を解消する一つのチャンスではあった。
だが、本来、第一段階としてすべての療養型病床群を介護保険適用にすべきだったのに、介護保険料の上昇を恐れた旧厚生省が、医療保険に残ることも認めてしまった。
そのことで、社会的入院を制度化したのである。

  もし、介護保険で医療を一切提供せず、医療保険にまかせるならば、それはそれですっきりする。
ただし、もともとが老人を対象とするサービス提供なのだから、医療的なニーズは常にあり、軽い医療を介護保険で提供することが絶対にダメだとはいえない。
だが、現状では療養型病床群でも介護老人保健施設においても、どこまで提供するのかがはつきりしない。
介護保険で医療を提供するなら、疾患・重症度によって医療費用も差をつけなければならない。

  医療と介護の区分けがはっきりしないのと関係があるのが、介護老人福祉施設、療養型病床群、介護老人保健施設の関係である。
そもそも、特別養護老人ホームが圧倒的に不足していたことが、社会的入院を生んだ一つの背景であり、療養型病床群は特養の代替施設として増えてきた。
また、先にも述べたように介護老人保健施設は介護保険適用となって、中間施設から永住施設化した。
つまり、この3施設は基本的には提供する機能がもはや同一化している。
ところが、報酬は、同じ要介護度でも療養型病床群(介護保険適用型)と介護老人福祉施設、介護老人保健施設では異なる。
制度設計者がそのような設定をしたのは、療養型病床群には給与水準の高い医師等が雇われているからであろうが、介護報酬が異なれば、入所者の自己負担も異なってくる。

老人の生活を社会でどう支えるか

ここまで現状の介護保険制度の欠点を述べてきたが、日本の場合は国民皆保険の医療が介護を社会的入院として抱え込んできた経緯があり、また、税による福祉もなかなか拡大・進展しなかったため、、介護保険導入以外に道はなかったと私は考える。
それゆえに、痴呆性老人や独居老人の問題については、制度導入以前から気が付き、指摘してきたものの、制度の導入自体には反対しなかった。

  介護保険の実施で、市民の間で介護が権利としてとらえられたことは評価してよいだろう。
申請しなければいろいろなサービスが受けられないこと、現実の介護資源にはあまり使えるものがないことなどは、不便な話ではあるが、なぜ保険料を払っているのにサービスがないのかを市民が考え始めるなら、それは一つの希望でもある。

  将来的に介護保険市場で競争が始まる可能性が生まれたことも評価できる。
これもまだあくまで可能性であって、居宅の近くにいくつもの事業者・施設が存在するようにならないと本当の競争にはならない。
希望的観測にすぎないかもしれないが、その競争は基本的にはケアの質を競う競争になるはずで、そうすればサービスの機能評価や施設評価もいずれ始まるだろう。

  介護保険法は、附則の第二条で「法律の施行後5年を目途としてその全般に関して検討が加えられ、その結果に基づき、必要な見直し等の措置が講ぜられるべきものとする」と定めている。
これまで指摘した欠点を踏まえながら、見直しの方向を考えてみよう。

  介護保険の見直しとは、言い換えれば高齢社会の老人の生活を支えるために、どう具体的に社会構造を変えていくかということである。
介護サービスの供給目標である「新ゴールドプラン」はほぼ達成されたが、4年後にゴールが設定された「ゴールド21」については、行政はあまり活発に取り組んでいない。
もういちど、有料老人ホームから療養型病床群に至るまでを老人の生活支援施設としてとらえ直し、アメニテイーについては個々の支払い能力に応じて自由にサービスを提供する一方で、基本的な生活支援については公平性を保てるように設計し直すべきであろう。

  ただ、これからの社会において、老人の数が多くなつてくるならば、社会的サポートもある程度効率的にやらざるをえない。
つまり、老人の住む所をある程度集約できないと、サポートしきれない。
しかし、今までのようにあまりにも生活から離れた形では問題が大きい。
なにより老人は環境が変わるとボケてしまう。
なるべく地域で生活環境を変えずにいられるように、老人住宅から徐々に介護の度合いが高まっていくようななだらかな施設群を、地域計画の問題として作っていくことが基本になる。
これを軸にしながら、そこに様々なサービスなりシステムを結合させていくことを考えるべきであろう。
もう少し具体的に言えば、まずはグループホームのような小規模な施設をできるだけ街中にたくさんつくることである。

どこまで在宅、どこから施設

ノーマライゼーション(隔離の否定)は、障害者の問題を含めて戦後世界における一つの流れであった。
ナチスとの対決、植民地解放闘争などの反差別・人権の流れが、社会的なサポートシステムとしてはノーマライゼーションとなった。
欧米諸国においては、国家に現実的な余裕があった戦後の一時期に、施設収容から在宅での生活に一気に移行した。
それは欧米の個人主義からも、ある意味で自然な動きだった。
日本においても、山奥にポツンと立っているような施設は、何とかうまく利用しようなどとは考えず、取り壊してしまうぐらいの思い切りが必要であろう。
ただ、欧米の個人主義といっても、だいたい親子は近くに住んでいる。
独立した子どもも同じコミュニティーの中に住んでいることが多い。
これなら、子どもが親の家を朝夕訪ねて様子を見るだけでも、かなりのところまで面倒がみられる。

  これまで指摘してきた欠点への具体的な対応策を述べたい。
まず独居老人。
現在、介護保険は建前上は独居老人まで面倒をみることができるはずだが、実際にはそうなっていない。
ならば、まずは独居老人については介護保険の外で対応する、すなわち例外的に措置制度で対応することを検討してもよい。
場合によっては、家政婦の住み込みや、長期滞在を認めてもいいだろう。
費用は安くすむはずだ。

  痴呆性老人の場合も含め、介護保険の中で対応する場合は、先に触れた「見守り」という介護を数量化できるかがカギだが、これは難しいだろう。
であれば、独居になった場合には在宅介護ではなく、たとえばグループホームに入ってもらうとか、施設介護のメニューをあらかじめ提示しておく。

  一般的に、重度化した場合は施設介護へ、という流れをつくつておくのは一つの方法である。
要介護度4、5については、施設介護のほうがふさわしいと言っておいたほうがいい。
なるべく在宅介護がいいというのなら、どこまで在宅介護で対応するのか明らかにしておくべきだろう。

  実は、独居のほうが施設よりも一般的にアメニティーは高い。
部屋は広いし、生活の自由がある。
施設にも居宅と同じアメニティーがあれば、移りやすい。

  先日、厚生労働省が介護老人福祉施設を全室個室化する方針だという報道が出た。
病院だって大部屋に入るのは一日でもつらい。
終の棲家なら、広くなくとも個室がいい。
そう考えて私たちが昨年3月に開設した介護老人福祉施設では、全室個室にした。
すると、家族がよく訪れてくる。
他の人居者に気兼ねしなくていいので来やすいのだろう。
全室個室は現在の制度でも可能だし、厚労省がどこまで腹をくくつているかは分からない。
だが、介護福祉老人施設から個室化が始まれば、いずれ介護老人保健施設にも広がっていくだろう。

施設は統合し、保険は併給せよ

中間施設が不足している問題は、このままだと以前の老人保健施設のような仕組みを新たに医療側がつくつていかざるをえなくなる。
またもや建て増しであり、温泉旅館の分かりにくさは一層増してしまう。

  基本的には、同じサービスを提供するのなら、同じ報酬でなければいけない。
療養型病床群、介護老人福祉施設、介護老人保健施設の機能が同じなら、この3施設は介護施設として統合すべきである。
まがりなりにも医師のいる療養型病床群を介護施設にすることは困難が伴うかもしれないが、医師・看護婦と介護担当者を切り離し、前者は診療所として開設することを認めればいい。

  ところが、現実には医療保険に残った療養型病床群が中間施設化してきた。
本来は、先に述べたように療養型病床群をすべて介護保険適用にし、その上で認定を要しない経過施設を介護保険の枠内で創設し、3施設の統合を図るべきであった。
ところが、ずるずるとここまで来てしまったので、次に打つべき手が難しくなっている。

  結局、介護保険の見直しは、年金まで含めた社会保障制度全般の構造を見直すことになる。
現在は過渡期なので仕方がないが、生活費や住居費などいわゆるホテルコストを介護保険が出すのは本来おかしい。
生活費を保障するのは年金の問題である。

  また、厚生労働省は、医療保険と介護保険の併給を認めていないが、これも改めるべきである。
併給を認めない最大の理由は、社会的入院と劣悪な医療を拡大させることを恐れているからと私は見ている。
かつての老人病院は薬漬け・検査漬けで社会的に大問題となった。
それを、医療保険の報酬を出来高払いから定額制にして抑えこんだのだが、併給を認めれば医療の部分はどうしても出来高払いにせざるをえなくなり、逆戻りになると考えているのであろう。
だが、かつてのような薬漬け医療は、薬価差益の減少と、査定の強化で激減した。
確かに悪徳病院はいまだに存在するが、それは、監視機関が調べ、情報公開すればよい。

  併給しないことは、病院においては別の問題の形をとる。
たとえば、痴呆性老人が急性増悪で入院すると、普通の看護体制では対応しきれず、病棟がめちゃくちゃになってしまうのである。
日本より早く介護保険を導入したドイツは、医療保険と介護保険の併給を認めている。
もちろん、先に述べたように医療と介護の線引きをやり直した上で、併給を認めるベきであることは言うまでもない。

  介護保険は、介護現場のユーザーが何を望んでいるかを考えず、カネの視点だけで制度設計をした気配が濃厚である。
要介護者や家族に対するインセンティプをどこに置けば需要がどう動いていくのかを織り込みながら、もう一度設計をやり直す必要がある。

前のページに戻る

ページトップ